2024.10.16
対談「人生・未来を語る」vol.4 市原幸夫さん×松岡義博(前編)
松岡会長がさまざまなゲストと人生や未来を語り合うシリーズも4回目。
今回は、30年来の友人であり、松岡会長が尊敬する経営者のお一人、山鹿市鹿本町で農業の6次化を手がける「株式会社パストラル」の代表・市原幸夫さんをお招きしました。
講演会のゲストとしても飛び回るお二人の対談。一体、どんなお話が語られるのでしょう。2回シリーズでお届けいたします。
市原さんが代表を務める「株式会社パストラル」について
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共に学び続ける、一生の友人
―お二人はどのくらいのお付き合いになるのですか?
松岡会長
もう30年以上になるかな。市原さんは、出会った当時、企画会社をされていて、「コッコファーム」のサポートをお願いしていたんです。会社の目標・個人の目標を立て、未来像を明確にすることで、結果的にスタッフのモチベーションも上がって、みんなイキイキと働くように。とにかく市原さんは、一歩先を行く人。私にとって、先生になる人です。
市原さん
そんなことはないですよ。「コッコファーム」さんのことは、創業当時から存じ上げており、大変な努力を重ねられて成功を修められました。そんな会社に関わらせていただけたことは私にとって幸運であったし、仕事を通して多くを学ばせていただきました。
松岡会長
今でも、週に1回はメールのやり取りをしながら交流を続けています。お会いするのは久しぶりで嬉しいですね。
新しいことを始めるとき、大事なのは「行動力と企画力」
―企画会社をされていた中、なぜ、新規事業に参入されたのですか?
市原さん
企画会社としてさまざまな会社のお手伝いをする中、自分も実業に挑戦してみたいという思いが強くなってきたからです。
松岡会長
市原さんがされているどの事業も素晴らしいのですが、当時の物産館事業のお話を聞かせてください。
市原さん
当時、熊本県では物産館建設がブームでした。そこで物産館の企画業務に参入しようと考え、事業主体である行政にアプローチしましたが、行政は無名の企画会社に情報を提供することありませんでした。そこで「くまもと物産館新聞」を発行し、行政に取材に行ったわけです。すると、行政は物産館計画についての様々な情報を提供してくれ、その情報をもとに企画書を作成し、行政に提案しました。この手法で県内の数多くの物産館の企画業務を随意契約で受注していきました。
―物産館事業の情報の集め方にも驚きましたが、情報をもとに行政を納得させる企画書を作り上げる能力。とにかく、企画力・行動力が桁違いです! また、ゼロからスタートし、結果を積み重ねて今に繋がっているというのは、お二人の大きな共通点ですね。だからこそ、30年経った今でも、良い関係が続いているのだと感じました。
市原さん
その後、産地アイスを製造するようになった経緯についてもお話しします。
物産館が立ち上がると売り上げも順調に伸びていきましたが、課題も出てきました。その1つが、農産加工組織の製造能力や体制についてです。物産館には、その地域の農産加工組織が加工品を納めています。組織のメンバーは高齢の女性が多く、加工品が売れるのはありがたいことではありますが、体力的な限界もあり、あるおばあちゃんから、「もう、しんどい」「辞めたい」という声を聞きました。このままでは、いずれ物産館から農産加工品は無くなると思い、おばあちゃんたちの息子嫁さんたちを集めて事業継承の提案をしたこともあります。
それでも課題解決には至りませんでした。そこで、農産加工組織のモデルをつくろうと思い、立ち上げたのが、規格外の農産物を使った産地アイス製造の「株式会社パストラル」です。
松岡会長
パストラルブランドは素晴らしく、各企業のプライベートブランドを作ったり、昨年リニューアルオープンした阿蘇くまもと空港からもオファーがあり、空港にパストラルゾーンをオープンしたりと各方面から引く手数多。本当に素晴らしい。
市原さん
産地アイス事業が軌道に乗るまでは紆余曲折の連続でした。初年度から1千万円の赤字を出し、私たち夫婦は創業から6年間は無給で働いていました。顧問税理士さんからは、「なんて無謀な事業を始めたのか、今すぐ辞めてください。理念だけではビジネスはうまくいかない!」と言われましたね。私がパストラルの立ち上げに専念しましたので、別会社の企画会社の売上も大幅赤字となり、その時は経営破綻の危機でしたね。
出会った人の言葉が、地域を見つめるキッカケに
―市原さんが掲げられている「なつかしい未来 里山家業」。このように「地域」と向き合う活動をされるようになったのは、何かキッカケがあったのでしょうか?
市原さん
地域と向き合うようになったキッカケは、東京、横浜、神戸、大阪での約10年間の経験があったからです。高校を卒業してすぐ上京。デザイン専門学校や水商売、アパレルの仕事をし、熊本に戻るつもりは全くありませんでした。東京原宿のニットデザインのアトリエで、同年代のファッションデザイナーの男性と出会ったことが、その後の人生を大きく変えることになりました。彼と一緒にそのアトリエを辞め、近い将来、神戸で一緒にブティックを開くことを誓い合いました。アトリエを辞めた後、ブティックの開業資金を貯めるために横浜の港で3年間、港湾荷役の仕事をしました。横浜での仕事を終え、神戸に旅立つ前、不義理をした原宿のニットデザインアトリエのオーナーにお詫びのあいさつに行きました。
その時、オーナから、「3年間何をしていたの」と尋ねられ、「横浜で港湾荷役をしていました」と答えたところ、女性オーナは涙を流され、「いい旅したね」と言ってくれました。
―ブティックはうまく行ったのでしょうか?
市原さん
横浜でガムシャラに働いてお金を貯めてオープンしましたが、経営はうまくいかず、今度は朝6時から大阪港で港湾荷役、夜8時から神戸三宮のクラブで働き、ブティックの運営資金にあてましたが、状況は改善せず行き詰ってしまい熊本に戻りました。熊本に帰ってからはカーテン業者、エクステリア業者に1カ月見習いにいき、自営業を始めました。お金が入ると東京に行き、原宿のニットデザインアトリエのオーナーと食事をし、神戸に行って仲間と交流するという生活を3年ほど続けました。
そのような中、原宿のアトリエのオーナーから「そんなに東京が好きなら東京に出てきたら」と言われ、私は「東京に居場所を作ってこなかったし、東京でやりたいことも分かりません」と答えました。オーナーは「それなら市原君は熊本にいる意味を、これから一生考え続けなさい」と言われました。この一言が地域に目を向ける動機付けとなり、その後、地域づくり活動にのめり込んでいくことになります。
松岡会長
私もさまざまな職を経験して今に至りますが、市原さんも似ていますよね。
市原さん
笑。そうですね、熊本に帰って内装業をしていた時期もあり、ある時、大工さんに「一緒に酒を飲まないなら、仕事はやらんぞ」と言われたことをきっかけに、30歳で建築士を目指し2年間専修学校で学び、建築士の資格を取得。それから建築設計事務所を立ち上げたり、建設会社をしたり、デザイン会社、模型会社、そして企画、物産館の仕事…。
―どれも専門職ばかりで驚きです。転職のキッカケは何だったのでしょう?
市原さん
今している仕事は本当に自分がやりたかったことなのかを考え続けてきました。そしてそこに疑問が生じてくると、また新しいことに挑戦したくなっていくのです。
それも東京、横浜、神戸での経験から来るのかもしれません。
―関東・関西時代やパストラル創業時のお写真をお借りしたいと尋ねたところ、「生きるのに精一杯で、思い出を写真に残すという心の余裕はありませんでした」と市原さん。自分自身に問いながら奮起し、次のステップへ。市原さんの挑戦は、まだまだ続いているようです。
後編では、現在、息子さんたちと共に取り組まれている事業について、そして、山鹿市で挑戦されようとしている“民官共創(商店主×渋柿生産農家×学生×一般市民×行政職員)による地域創生”について、お話を伺います。